昭和45年10月18日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
ここ、ところを頂いておりますと、信心というのただ神参りをするとか、ただ拝んでおりますと、言うことやら、ただお参りをしておかげを受けておるということではないことが分りますですね。信心せよとこう一番始めから仰っておられます、その信心とはね、おかげを受ける事が信心とか、参ったり拝んだりしておるという事ではない。「信心とは、わが心が神に向こうのを信心というのじゃ」と、はっきり仰っておられます。
ここんところがあの、信心とはそのようなものだと、言う事分っとらんと、一番最後のところがあやふやになると思うんですよね。「火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり」と言う所が分らない。ね、ですから、まぁ夜は闇なりと仰るが、夜とまぁ家の中はと言うてもいいと思うです、ね、小さく申しますなら。家の中は、が闇なり。いうなら、平穏無事の時はまぁ言うならば、それはお昼の状態の時ですよね。光は、そう大して必要としない時なんです。人間関係の上にも、経済の上にも、健康の上にもまぁおかげを頂いておる。
ですから、そこに困ったとか、神様にすがらんならんといったような事もない。ところが一度、その、夜になってまいりますと、ね、いよいよ闇の世であり、手探りであり。そこで人間の、いわゆる苦悩、ね、苦しみの世界があるわけです。そこで初めて、いわゆる成る程夜は闇だということになるのだ。いわゆるお先真っ暗だと言うのです。ところがそういうお先真っ暗だと言ったようなことに直面いたしましても、夜になってもです、ね、信心があれば世の中は明るくいけるんだ。
信心があれば、家の中はどのような中にあっても、ね、暗い思いをする事はいらんのだと言う事になるわけです。ね、ですからまずこの辺のところが、ひとつ分らなければいけません。家は金光様の信心しよるけれども、ね、お先真っ暗だと言うならどうでしょうか。ね、それは、あなたのは、教祖の仰っておられる信心ではないと言うことになります。成る程参りはおる。拝みはおる。ね、だから、教祖様はそれを信心とは仰っていない。信心せよ、と始めに仰っておる。
「信心せよ、信心とはわが心が神に向こうのを信心というのじゃ」というのじゃとおっしゃっておられる。だから自分の心が神様へ向こうて、進んで行った、高められて行っておるような信心でなかったら、もうあなたの信心は信心じゃないわけです。ね、十年経っても、二十年経っても自分の信心というものが一向、向上しよらん。わが心が神に向かいよらん。ね、そこに光があろうはずもなし、又成る程何にもない平穏無事という時にはまぁそれで良いようなもんだけれど。
まぁお願いをしておかげを頂いてもです、ね、やはりお先真っ暗な思いがあったり、家の中が暗かったりしたら、もうあなたの信心は、もう信心の本当の値打ちは発揮していないんだと言う事になるわけです。ね、世界どころか、自分の家の中すらがまだ真っ暗だと言う事になる。ほりゃ成る程信心はなかってもです、拝みはせん、参りはしなくてもです、いわゆる経済、人間関係、ね、
健康と言ったようなお家は沢山ありますよ。ね、ですから、いわゆる、まぁ結構やって、いわゆるその、マイホーム的なおかげを受けておるというのは、それは丁度、その人の家がね、いまお昼の場合だからこっとるとも言わんで行きよるとですよ。金が不自由しない、健康も別に何処がどう悪いとも、と言うことでもない。そんな訳ですから、まぁ言うなら人間関係の方もまぁスムーズに行きよると。
ね、信心の光に浴すると、いう所から、信心の光を頂くという所にお互いの信心が進んで行く事を、私はわが心が神に向こうていくんだと思います。ね、信心の光に浴するというのは、自分自身に光はない。光はないけれどもです、ね、御取次ぎの御徳によって、心が明るうなる。ね、親先生任せになっとけばという安心がある。普通から言うたら、もう言うならばお先真っ暗だと言うような状態の中である。
私は、最近ここで感じます事は、そういうこの、光に浴するという事のおかげの、本当にこれは凄まじいまでにあっておることに驚くくらいです。この願いの信心が、うんぬんされるようになってこの方こっち、そりゃ本当に凄まじいですよ、おかげを受けておる人達の姿というものは。金銭関係の上でも、体の上でも。健康の上でもね、人間関係の上でも、いわゆる、その人達が本当に願うという姿勢をとって、信心は分らん。
分らんけども願うという姿勢をとって、一心に向こうて来るところにですね、もうそれはもう実に驚くばかりです。特にね、経済関係のことなんかのことではもう、お届けさせて頂く私が、本当不思議なことじゃあると思うです。ね、まぁ本当に私は、一人一人ですね、最近おかげ受けておられる方には名前を上げてお話したいごとあるとです。けれどもそのおかげ半ばのことではあるし。人間関係のことであるし、又は経済関、まぁ言うなら人にあまりしらした、知られたくないといったような内容だから。
お話が出来ないのが残念ですけれどね、もう本当にあの、凄まじい事あるです。私は夕べは、合楽会にその一、二の例をお話してから、もう本当に私がいよると知らごつじゃなかですよ、ほんなこつですよっち、何べんも途中で言いながらお話しました。そこ横に佐田さんとか、久富さんとか繁雄さん達がおられましたから、もうこの人達が実は証人、証人っちいうがまぁそれ知ってあるから、ほんなこて凄まじい、凄まじいまでのおかげだなぁと言うて、皆さんがいんや知らごっちゃ思いません。
ほんなこっと思いますというごたる風で聞きなさるから、私はお話昨日させて頂いたんですけどね。本当に畏れ入ってしまうですよ。もうそれがどういうところからか、というとですね、とにかくもう、それこそ青菜に塩とでも申しましょうか。もういよいよ難しかと思うて、それでもやはり、お参りをして来て御理解を頂く、腹が決まる。又、青菜に塩、塩のごつなる、又お参りをして来る。又、お話を頂いて元気が出ると。ね、そういうようなところから、言うならどんばらが据わるというか、腹が据わる。
いわゆる、ままよというような心が出て来る。そこからもう、それはそれはもう、不思議な不思議な、おかげになって現れてきておる。もうほんなこつ言うなら、何時の昔、この店が潰れてしまわにゃならんとが、もうそれこそ、なら潰れもせず、別にどうと言う、けども潰れずにそれが、次第次第に先のが、いわゆるお先真っ暗であったのが、ずうっと光が、灯りがさしてくるような日々を最近送っておるといったような状態。
昨日の晩したかね、これ光昭の高校時代の友達。むつやの信司さんのお導きで参っ、丁度去年の今頃だと、参ってまいります。お母さんが子宮ガンで、もう医者は難しいと。それで信司さんに導かれて、まあ、何日間か、一生懸命お参りさせて頂いたら、おかげになるという事であった。おかげになる、一心にお願いしなさい。それっきり私は良くなったとも、退院したとも聞かなかったら。
昨日の晩出て参りましてから、あげんしてお願いしとったつがおかげ頂いてから、一年前の話ですね。おかげ頂いて帰って来たとこういう。お礼参りもなんもせんから分らん、こっちは。それでもやはりその癌ですから、一週間に一遍づつか月に一遍づつか病院にも検診にいかなきゃならん。検診に行ってももう大丈夫、もう大丈夫じゃったんです。ところがね、たまたまその痔が悪くなった、だから全然違う病院に行ったて。
ところがね、子宮ガンじゃないけれども、今度は直腸癌ちゅうことに、痔の、あれに行ってから分ったんです。まぁ、それから又、それこそまぁびっくりして、そのお参りして来たのが昨日の晩でした。そしたらね、あの、もう今度は駄目っち言う意味のことを頂いたんですよ。ああもう末だと頂いた。っていう事は、もう駄目だというんでしょう、末だっちうことは。
信司さんから、そのお話を聞いて例えどうじゃったっちゃ、母親、親のその病気にね、一生懸命その、もうそりゃ力とか医者とかにすがって一生懸命のこと、手当てをする事だけの事はしたと。ね、それだけではね、中野って言いいます、中野さんそのすまんよち。私はもう本当に母親がなくなるまで、もう私なりにまだ、いわゆるその、信心も分かりもしない中に、もうとにかく私なりに一生懸命におすがりしたっち。なるほど、母は亡くなったけれどもね、それからの信心が段々成長して来るに従って、あの時に一生懸命に母のためになっとったという事がもう一つも後悔でない。
私がもしあん時にいい加減にしとったら、どのくらい今、後悔しかた分らんという話をしたそうです。だから、助かる助からんは別として、僕も神様に一生懸命おすがりするから、ま一遍連れて行ってくれと言うて、昨日まぁ又信司さんが連れて参って来た。そげん言うてから、ここでお届けがありますから私が申しました。あの親が子の事を願い、子が親のことを願うてね、行くというくらいこの一心が立つことないですよと。親が子のことを願う、子が又親のことを願う。だから一心にすがりなさいと、とにかく、子が親のことを願うというたら、涙ポロポロ流して、ここでそのお届けをされるんです。
子が親のことを願う。そしたらね、今まで私が、末だって頂いておった末と言う字がですね、こう略字で、続け字で書いた米と言う字に変わった所を頂いたです。だから、私は直ぐこりゃ中野さん、あんたが一生懸命なりゃ又助け、お助けを頂くよっち言うて申しました。だからこれはもうたす、その末てあるから助からんということは申しませんでした。けれども、あの、次にその末と言う字が米と言う字になるところを頂いたから、私はこりゃあんたが熱さえかけりゃままになる、と私はこう思うたです。ね、だから一生懸命おすがりしなさい。
そしたら昨夜、又参ってまいりましてからですもん、先生もう大変おかげ頂きましたっち言うちから、にこにこして参って来とったです。今日病院に行ってみましたっち。そしたら母がもう、こうしとったとが、もう元気にニコニコしてですね、今日はもう私は、もうちょいとその不思議なこと。痔が悪いけれども全然その、排泄が出来んのですね便所の。ところがもう今日はもう気持ちのよかごたるその、その排泄が出来た、便所に行くことが出来たち。というてその、まぁだその、癌の方の手術のことは、今じゃありませんけれども、その前にその、痔のほうがそんなに悪かったそうですね。
もうそれこそ不思議だと言うてその、まぁ子供さんに、てまぁ息子さんとしてはそれはおかげ頂いたと、まぁ思うて参って来てから、もうおかげじゃろうぐらいなこっちゃなかばい。おかげと思わにゃこと出来んよと言うて、夕べは申しましたことでしたがね。そういう例えばその、生きた働き、だからこのおかげに力を得て、このおかげに力を得て元気な心で信心する、熱をかけるなら、必ずままになるおかげを受けられると言うて、夕べもお話したことでした。
と言うようにね、ない、もうつまらん。もう末だと言われるような命が助かるかという、そこに光明が見えてきたわけなんです。ね、もうこの店は、もう潰れると。私はだからどんばら据えなさいち。だから、もうけそけそしなさんな。ね、道具ばむこさんどかさかんやっとくとか、財産の一部をどうかするとか、タンスん中に着物でんどこさんかやっとかにゃ、もう絶対そげなこつどんしなさんなち。
ところがが第一ですね、債権者がやって来んちゅうんですよ。もう日にちもだいぶん経つのに。何人かの債権者が見えた方はですね、もうあんまり自分が落ち着いとるもんですから、かえってたまがってから、債権者の一人がお金ば出そうかっち言うごたるところまで今日きっとる。昨日来た時。だからおよたれまわって取次どんしなさんなっち私は、まだそこんところも落ち着いとかにゃいかんよち私が言いよるです。ね、例えば、さすら、差し押さえさえされるのに、いろんな財産は分散してからこれだけはとりとめよち言うごたる、ケチな考えどんもちなさんなと言うのですよ。
どん腹据えておっかかった。ですから先生、こりゃ又おかげで店が、これから持ち直すかもしれんちゅうところまでいっとる。だからもう、だから今まではもうあんたがここに来るために泣きの涙で参ってきよったけんな。だから今日からはいっちょんなら、もうニコニコでしれしれたい、言うならば、お願い参りじゃないお礼参りに出、前に出て来なさいっち私がまぁ言いよります。昨日から。その話の内容を聞くとです、もう本当に神様の働きのその凄まじい働きに驚いてしまう位です。これなんかを今日私が言う、ここにある光に浴するわけです。光に浴する。だからそういう意味でのおかげは、ここで御神縁を頂いておる例えば皆受けとるわけです。光に浴しておるというおかげは。
信心は出来んでも、ね、御取次ぎの光によって信心の光が、光に浴しておるわけです。だから、光によくすることだけが信心のごと思うちゃならん。例えば今日の27、「信心せよ、信心とはわが心が神に向こうのを信心というのぞ」ね、光に浴することによって明るうなる、先が見通しがつく。ね、こりゃ助かることが出来るぞと、ね、こりゃもう潰れんで済むかもしれんぞと、先が明るう見えて来た。ね、それでもね、やはり、やはり真っ暗い中に、いわゆるお先真っ暗であった、そのものが、いわゆるほのぼのと明るさが出来て来るのですけれども、ね、それは(いっぴ?)浴するだけのこと。
そこで、ね、信心とはわが心が神に向こうのを信心と言うのじゃ、と心得なければいけん、お互いが。ね、だから自分の心が神様に向かって向かうのですから、今のままで神様に向かえるはずがない。第一、心の内から改まる事が第一になって来る。磨くことが第一になって来る。今までの生き方ががらりと変わって来る。人間じゃけんこんくらいな事当たり前じゃろうばってん、そりゃ人間なら当たり前かもしれんばってん、神様なら当たり前じゃなか。
わが心が神に向こうて行くのですから。ね、そこで改まった生活が出来て来る、ね、そこから、自分の心の中に光が頂ける。ね、「カンテラの中に油がいっぱいあっても芯がなければ火が灯らん」本当にどういうおかげの中にあってもです。夕べもこれ私は、合楽会の方に話たことでしたけれどもね、どれだけお金が分からんと言ったような財産を持っておられる人が、ね、ご主人が亡くなられた。それも、もう本当にたまがるような事で亡くなられた。ですから財産の整理が全然出来てなかった。ですからその、なんちゅうですかね、財産税で沢山取られる。
それこそお先真っ暗毎日、それこそ、それこそ財産を、その例えば何割か取られるという事がもう狂おうごとあると、毎日が。して見るとほら、お金があったから、健康だったからで、あの、では、いよいよ、いよいよ主人が亡くなった、真っ暗になった、財産をとられる事になったちゅうだけでも、その大変なおかげでないことが分かるでしょう。昨日の朝の御理解じゃなかばってん。ただ、蓮の台の上に座っとるだけを極楽じゃないちゅう。どのような難儀な中にあっても、その難儀な事が難儀な事ではないと言う生き方を分からせてもらった時に、初めてそれが極楽だというですね。楽のゆうじゅう。楽と言う字を、解釈して(のぼりかえとった?)ですね。
どんなに、カンテラの中に油がいっぱいあっても、芯がなからなければ火はともらんのである。どんなに、沢山がお金があるからと、ね、だからそこの嫁御が時々参って来るですから、嫁御、参ってまいりましてから私は申しました、その方に。それこそ、いくら税金で取られたっちゃね、残ったつは、改めて頂いたと思いなさい、ち私は。自分のば取られると思うけんそげん狂おうごたる。だから残ったつば改めて頂いたと思うたら、それだっちゃあんた、何十億あるじゃ分からんち、言うぐらいな財産ちゅう。それじゃ有り難いこっちゃない。
一修行しなさいっちったら、これほんなこて一修行なりましてですね、そのこの頃から病院に行ったところが、それもやっぱ、その癌ち言われた。まぁ初期だけれど。だからこの二十日に、いよいよ、手術することになっとる。けれども、それは修行じゃけんで、あんた心配する事いらん。しかも大祭の二十日の日に、手術という、手術するとじゃから、おかげになる。まぁ安心して行きなさいち言うて、私は言うとる。ね、ほら、命あってのものだねじゃろうが、どがしこ財産があったっちゃ、それをほうからけちから何な、ならんよち私が。
昨日、これも合楽会の中であの中村さん、中村スギさん、会長さん、が発表しておられました。今度初めて御本部参拝をさして頂いた。たくさんの金を使こうて、暇ひっかいで、所がもう大祭で、あちら皆さん一緒にお参りさせて頂いたばってん、もう眠うして眠してありがたんだんじゃなか、もう寝む倒れるごと眠かったち。そればってんが、なかなか根性がしっかりしておられますからね。こげなこつじゃ馬鹿らしかち思うたち。わざわざ御本部参拝させて頂いとってから。
沢山の金を使うていとって、何のために参ったか分からん。自分である、これはもう親先生にもお届けしとらんばってん、実はこげな難しい難儀な問題があって、やっぱおかげ頂きたいと思うてその参られたわけなんです。で御本部どん参ったならと言うので思い立たれたわけなんです。所がどげん一生懸命なったちゃ、御大祭のそのどんこんされんごと眠り倒れるごとあったち。それから親先生と一緒にお広前に出、奥城にやらして頂いたらもうどこから湧いてくるか分からんごたある感動で、奥城の前でとうとう泣き出しましたというあの発表しておられました。
御本部ちゅうとこはそげん有りがたかとこですよっちゆうて参ったことのない人が多いですからね、合楽会の人は、そのことを発表しておられます。そこに例えば喜び、喜ぶざい、そのものは目には見えないけども一杯あってもです、本人にね、だから芯がならなければ灯はともらんち。ね、本気で有難うならにゃん、そしたら先生、その難儀な問題がね、奥城で有難たくなったときには、こりゃもう心配するこっちゃなぁか、おかげになると自分で思うたっちこう言われた。
だから先の方がもう明るうなって、くっとした顔が全然せんですむまで、おかげを今日までこうやって頂いておると言うことをま、実感をそのままにね、昨日発表しておられました。光が少しでき始めてくると、もうお先真っ暗じゃないことになってくるわけなんですよ。信心とは。だからそういう姿勢を取らにゃいかんです。参ってきただけでただおかげば頂くと言うことだけがね、目当てだったら何十年たったちゃ、それはね、光に浴すると言うことだけであってです、ね、自分のものではない。
信心とは自分に、自分の心の中に光がともること。信心の光が。ね、だから昼は明るいから光はいらんごとあるけれど、いよいよ夜になったときに初めて信心の光と言うものが灯されておるときにです、ね、暗いトンネルの中もトンネルの中とは思わんで前進していくことがでける。前を向いて進んでいくことができる。ここでもそうです。ただ今申しますように、ほんとにあの願いのこちら、すさまじいまでの働きを頂きよるて。それこそここの中にはそれこそ渦を巻くようにそういう働きがありよると言うところだけでも、その気にならなければ、それに触れることはできんのですよ。
信心せよ、信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと言うことを皆さん分かったですね。金光様の御信心と言うのは、参りよります、拝みよりますと言うのは信心のうちに入らん。自分の心が神様に向かって進んでいく、そのための精進するそのことが信心なのだということ。そこが分からして頂いて次には、次の姿勢です御神徳の中にあってもそれこそ油が一杯ランプの中に入っておっても、芯がなからなければ灯がともらないように、私どもが中村さんじゃないですけれども、折角お参りしたんだから。
眠りたおれるあるけれども、こげなこっちゃ馬鹿らしか、何か頂いて帰らなければと言うその姿勢にどこからわいてくるか分からんほどしの感動をいただいた。ね、だからそういうまず姿勢がそんなかには説いてありますね。神徳の中におっても氏子に信なければおかげはなし、カンテラに油一杯あっても芯がなければ灯はともらず、灯がともらねば夜は闇なり、信心なければ世界は闇なり、信心を、金光様の信心さして頂いておるという人はたくさんありましょう。
そんなら世界が明るくなっとるかちゅうと明るくなっていないでしょうが。自分の家すらが明るくなっていないじゃない。家ん中すらが。それはただ光に浴しておるだけだから、自分の心に信が、光がないからなんだ。そこで信心なければ世界は闇なりと言う信心とは、自分の心の中に頂けれる光、光が頂けるような信心とは、心が、わが心が神に向かうていくという、そういう目指しをもっての信心なんだ。そういう信心でなければならないと言うことを21節では教えてあるわけなんですよ。
皆さんもご一緒にお祈り添え願いたいことがあるのです。というのは、昨日夕方、親教会から電話がかかって参りましてね、私?毎日光昭が代参をしてくれます。昨日もお月次祭でお参りをしてきとります。で、若先生がお祭りを仕えられて、親先生がちょっと疲れておられるから自分がお祭りを仕えると言うふうに言われたそうですから、そん、親先生がそんなにお悪いと知らなかったわけです。
ところがその北野の先生から電話が掛かりましてから、親先生がこんなに悪いのをあんた知っとるかといったようなお電話だった。あら知らんどころじゃありません。ほんとにご無礼しとるから相済まんことでしたと言うので、すぐ繁男さんが見えて、繁男さん同道で参りました。そしたらまあ大変ま、気分ようお休みになっとられました。で私が参りましてから大祭の打ち合わせ。
ほらとても大祭に祭主を仕えることはできんから、このままならま、あんたがこんだ祭主を仕えんならんと言ったようなことを、ま言うて下さることのために呼ばれたらしんです。で段々お話頂かして貰いよりましたらその、二三日前もう大変やっぱひどかったらしんです。そんならそのこと、しかしいくら私がご無礼がでけて、ご無礼ばっかりしておるからと言うても、言うて頂きゃすぐほんとに、あのお参りをさせて頂いたのに、お祈り添えもでけたのにと言うてま、申しましたことでしたけれども。
とにかくね、大小便がピタッと止まってしもうちから、出らんごっなった。ほりゃあんたもう小便に行きたいとに、こらえとるだけでんあなた大変苦しいとにあなた、大小便がもうとにかく出らん。ほりゃもうほんにそれこそもう大変な、一晩じゃあったけど苦しかったち。それで夜が明けるのを待って医者に行かれたところが、そのいわゆる尿道になんかを差し込んで尿を取ったり、それからあのなにか掻きだしてからその大便を出したりされて、ま、おかげで楽になった。
ところがそのあんまりひどい掻き出しをしたもんじゃから、その痔まで悪うなってですね、今はだから、その痔の方が悪かけんで、寝とるとちって仰いました。とてもそりゃほんとにね、私どもが、私がいつも言うでしょうが。とても大小便にでもほんなこて気持ちよういかれるちゅうことは、もうそりゃ大変なおかげなんですよ。ほらもうどんこんされんごとあるおかげですよ。
それももう当たり前んごと思うてからね、お礼も申し上げませんけれども、ほんとにね、とても大小便でもほんなこて気持ちよういけるならね、もうほんとにお礼、それがさ、カンテラに油が一杯あっても芯がなかから有難いが出てこんでしょうが。私だん、ほんな目が覚めたらもう目が覚めた時、もうほんとに今日も生きとったという喜びが一番口です。すぐ大小便に行ってから、もう気持ち、もう行くたんびんにもう私はほんなこて、もう不生涯の思いでお礼を申し上げる、申しよる。
おかげでね、そんなおかげを頂いとる、おかげで信があるから、そういう喜びが湧いてくるとですよ。信がなかったらそういう広大なおかげを頂いておっても灯がともらないのです。私が急にお願い、神様にお願いさして頂き、いろいろなことを頂きますのにやっぱり相当、ま、一応そうしておかげ頂いておられますけれども、やっぱり大変神様難しいようにも頂きます。やっぱりお祈り添えをさせて頂かなきゃならんと思いますね。ま、こりゃ余談でしたけれども余談じゃない。
これはどうでも皆さんにもお祈り添えいただきたいとこう思いますから、お話したわけでございますがね。ほんとに大小便がたとえば出らんちゅうだけでもどんこんこんこんされん、大変な苦しい。それを大小便が出ておると言うだけでも、ほんとに神様有難うございます、それをカンテラの中に油が一杯あると言ういうときなんですよ。目が見えておったり、手が動いておったり、こうやって歩いて参って来られたり。
もうそれこそカンテラの中にいっぱい油が入っているのだけれど、信がなかから有難いものが湧いてこない。その有難いと言う心が光なんだ。ね、どうでも一つ私は信心させて頂いてただお取次ぎを頂いて、お取次ぎの、ね、光に浴するだけではなくて、その光そのものを自分自身の心の中に灯させて頂くところのおかげを頂くと言うことがです、ね、まず自分の心が明るくなる。自分の家の中があかるうなる。
そういう家庭がたくさん出ける。そこに世界がいよいよ明るい世界になってくる。世界真の平和と言ったようなものは、そういう私は人間氏子、そういう家族が段々増えていくことであると私は思います。そこんところを願っての信心。信心とはわが心が神に向こうのを信心と言うのじゃと、信心とは参りよりゃ、もう信心と言うことではないぞと。信心とはわが心が神に向こうていかなゃん、だから向こうて行くためには、今迄の人間であっちゃならない。神様に一歩一歩近づいていかにゃいかん。
だからこんくらいなことは当たり前とは言うちゃおられない。本気で改まる本気で磨くところには、人間の本性の中には、神様がちゃんと宿ってござる。その神様が現れなさる時に光が、いわゆる光を放つことができるのです。それこそあちらの姿には後光の差しよるごたあると言うおかげになってくるわけです。昨日たった一日、朝参りをさっしゃらじゃっただけでね、神様がああいうお気付けをくださるちゃ、大変な有難いことだなと私は思うだですね。佐田さん昨日は朝参りがでけなかった。ね、
いわゆる二三日前のご理解じゃなかばってん、ちょっとゆるんだ。けども神様は、それこそ九里半登っても十里のところを登らせようという働きがあるからこそそれがでけた。いわゆる事故が、事故があった。ね、そういう事情もびっくりされましたけれども、病院、ほんなもう外科医の病院の前だったから、すぐ、それから大変な頭のことで出血しておられたそうですけれども、たった二針だけ縫うだけでよかった。
もうそれがもうとにかく、もうとにかく有難うして応えんという思いで向こうに接しられるもんですから向こうとしてもですね、もう本当にもうそげん言うて貰わんでんよか、そうして貰わんでんよか、もうとにかく私が悪かったちゃけんでちゅうて、向こうの方がこんだもう私が悪かけん私が悪かけん、いいえそげなこっちゃなかちゅうて昨日佐田さん、もうそれこそどんこんこんでけんごと有難い思いでお礼に出て見えられました。
昨夜夫婦でそのことでまたお礼に出て見えられました。ね、たとえばそういう事故にあってそのどんこんされんごとお礼のいわにゃおれないようなおかげを頂くことのためにお互い信心しよるとですよ。佐田さんが言うておられます、ほんに世の中がです、私とその方のような人ばっかりなら、どげん交通事故んあったちゃ、世の中はこっとりとん言わんじゃろうちゅうておられます。
ぬしが悪かつおれが、俺は悪うなか、お前が悪かった、というのじゃないち。ね、もうほんとに私が悪かった、私が悪かったというのだもん。そういう世界がです、世界、私は、世界が光の世界と言うのはそういう世界だと思う。ね、だからそういう世界を顕現していかなければならない。ためにはまず私の心の中から、まず私の家庭の中から、そういう信心をいよいよ身に付けていきたいと思いますね。
どうぞ。